旅先で撮った写真で「Liminal Space」っぽい風景をまとめてみる
"Liminal Space"というワードが昨年あたりから日本で話題になっている。
意味合いとしては身近で馴染みがある場所だが、どこか不気味で不安の感じる空間であり、初出は4chanに投下された一枚の画像(室内らしき空間)である。この画像はThe Backroomsと呼ばれるようになり様々な派生作品が生み出されていった。代表的なのはKane Pixels氏による映像作品*1で、日本でも大きな反響を呼んでいる。
自分にとってのLiminal Spaceは、南海堺東駅に隣接する堺髙島屋の地下レストラン街の広い空間だと思う。子供の頃に祖父(故人)に連れられて堺市内のとある神社に参拝した後に髙島屋で昼食を摂るのがちょっとした恒例行事だったのだが、地下にレストラン街があるせいか他のフロアより人通りが少なく、階段やスロープの配置が不規則だったのを見て少し不気味に感じたのを強く覚えている。堺東駅のホームから神社へ向かう際に通っていた東口通路も昔ながらの少し不気味な雰囲気で、祖父の実家で真夜中に恐る恐るトイレへ向かった時の廊下をつい思い出してしまった。
自分が住む大阪府内で他にLiminal Spaceに相応しい場所を挙げるとするなら
・京阪中之島線の各駅
辺りだろうか。堺筋本町はかつての帝人ホール(現存せず)へ至る出口もかなり不気味だった記憶があるが現在どうなっているのかは未知数だ。
一通り考えていると、今まで自分が旅行先で撮ってきた写真にもLiminal Spaceに該当する空間が存在するのではと思い、今回それっぽい写真を集める事にした。
写真を選ぶ際にあたって個人的に重視したのは、地元の住人が比較的よく通りそうな場所の片隅にある空間である。身近に通る場所だからこそ、時には少し不気味に感じる事もあるかもしれない。ただしあくまで自分は旅行者なので、全く見当違いな場所を選んでいる可能性も十分にある。(100%自信は無いので大目に見てほしい…)
(1)北海道 赤平市 JR赤平駅コンコース
(2)北海道 釧路市 某ホテルの地下コインランドリー
(3)北海道 苫小牧市 駅前バスターミナル ※後に閉鎖
(7)秋田県 鹿角市 史跡尾去沢鉱山の閉鎖された駐車場への入口
(8)山形県 鶴岡市 閉鎖した旧善宝寺鉄道博物館とその手前にある公園
(10)茨城県土浦市 土浦ニューウェイの川口町バス停付近の通路
(13)東京都 中央区 都営新宿線馬喰横山駅のJR乗り換え通路
(14)東京都 府中市 矢崎町緑道公園
(20)石川県 金沢市 北鉄浅野川線金沢駅地下ホーム出入口前の広場
(23)愛知県 岡崎市 岡ビル百貨店3階
(25)岐阜県 大垣市 交差点下の封鎖された空間がある地下道
(28) 京都府 京都市 地下鉄烏丸線の駅の改札付近に居るヤツ
(31) 兵庫県 たつの市 龍野ショッピングセンター(旧ジャスコ竜野店)
(41)徳島県 三好市池田 デパートサンライズ1階(旧中央図書館) ※解体済み
(44)福岡県 田川市 旧後藤寺バスセンター
(47)長崎県 諫早市 諫早バスターミナルへの階段 ※現在は閉鎖
いかがでしたか?
という事で50枚の写真を出し終えた。正直な所、自分の写真から一枚ずつそれっぽい風景を集めるのは相当難儀した。最初は廃墟などの写真は極力除外しようと考えていたが、住宅街や観光地の中にポツンと佇むタイプの廃墟であればLiminal Spaceの文脈に合致するだろうと思い今回含める事にした。
旅先で撮った写真はどうしても観光地が中心になってしまいがちなので、今後はそこで生活する地元の人々が日常的に通いそうな場所(スーパーやショッピングモールなど)にも意識的に足を運び、その中でLiminal Spaceに近そうな空間を探り出す必要があるように感じた。もう少し重点的に探れば今回上げた50枚よりも"それっぽい"雰囲気の写真をまとめられるかもしれない…
標津線厚床支線&別海村営軌道 奥行臼駅跡 後編
前回
道路の反対側に有ったのは、別海村営軌道の保存車輌だった。
別海村営軌道は、別海村内(現在の別海町)を運行していた簡易軌道で、1971年の廃止当時は奥行臼から上風連までを結んでいた。
簡易軌道は戦前までは殖民軌道と呼ばれ、主に北海道の入植地と街を結ぶ交通・輸送手段として重宝された。国鉄標津線の開通は1933年だが、それ以前はほぼ同じ区間に並行して殖民軌道*1が通っていた。
別海村営軌道が奥行臼駅に乗り入れたのは1963年で、既存区間である厚床からの路線は同時に廃止。8年後の1971年にはこの区間も廃止となり村営軌道は全廃されてしまった。この当時は既にモータリゼーションによる道路整備等によって輸送手段もトラック等に切り替わっていたのかもしれない。
奥行臼停留所跡に残る駅舎詰所。こちらも内部が特別公開されているようだ。
内部に展示されていたのは当時の駅構内を再現したジオラマ。標津線の駅に急カーブで接続していたらしい。軌道側に対して遮断機が置かれていた踏切には驚く。(信号機が有ったのも意外だった)
現役時代の写真。こちらは奥行臼停留所の風景が中心だが、一番左上の写真は厚床で撮影された物である。この時代はまだ馬車が用いられていた。*2
こちらは上風連停留所の写真。現在も機関庫が残っているらしい。
停留所跡には実際に使われていた車両が展示保存されている。こちらは旅客用の自走客車であるが名称等は特にない。*3
加藤製作所製のディーゼル機関車と貨車。牛乳輸送を行っていた事から貨車はミルクゴンドラと呼ばれていたらしい。
転車台跡。何故か橋梁部分のみ消失している。
上風連方面の廃線跡は路盤が残存しているものの、自然回帰が進んでいるため判別しづらい。
転車台跡の奥に何やら怪しげな構造物が。これの正体は…
大型機関庫跡である。駅舎詰所と違いこちらは完全に廃墟同然の様相を呈している。かつては手前の朽ちた木柱から奥の建物にかけて大屋根が有ったようだ。
突入…。春先だから容易に接近できたが雑草が生い茂る夏場はかなり厳しそう。
機関庫内の様子。現在屋外に展示されている保存車輌は元々ここで長らく保管されていたらしい。
枕木がそっくりそのまま残っていた。
ピット跡も確認出来るが崩落が進みつつある。
天井もご覧の有り様である。冬季は積雪などのリスクもありこの建物が原形を留めているのも時間の問題では無いだろうか。
そろそろ元の場所へ戻ろう。
もう少しここに留まりたいのだが、出発の時間が刻一刻と迫る。
3回に渡ってこの駅跡を取り上げたが、ここでの滞在時間はバスの本数の影響もありたったの52分だった。やはりレンタカーの方が間違いなく便利かもしれない。
駅跡を去るのが惜しい…。っていうか最初来た時に比べて車の数が増えてるような。
最後に取り上げたい物件が一つ。こちらの奥行臼駅逓所である。駅逓所とは北海道の開拓時代に使われていた宿場施設であり鉄道駅*4を指している訳ではない。場所は奥行臼駅跡と奥行バス停の中間辺り。
ここも奥行臼駅跡と同じく内部が特別公開されていたが、今回は時間の都合で泣く泣くパスする事に。数年前に改修されたらしく外観はピカピカだった。
奥行バス停から中標津空港線のバスで奥行臼を去る。この路線は中標津空港から厚床駅を経由して根室の駅前ターミナルへ至る。空港連絡バスが廃止された特定地方交通線の事実上の代替バスになっている事例は九州の旧山野線などでも見受けられる。
車内の様子。まさかの3列シートだった。(かつては長距離夜行バスに充当されていた?)
そして乗客は数える程度しか居なかった。中標津空港線は空港以外の部分的な乗車でも問題なく利用できる所が非常に便利だと思ったのだが、大型連休シーズンでも乗車率が低いと先行きが不安になってしまう…。
バスから見た温根沼。
約一時間弱の乗車でこの日の目的地、根室に到着した。
今回は奥行臼駅のみを取り上げたが、標津線の遺構は鉄道資料館がある西春別駅跡やターンテーブルが保存されている根室標津駅跡など、まだまだ随所に残っているらしい。再訪する機会があればそちらの訪問も兼ねて周りたい所存である。
標津線厚床支線 奥行臼駅跡 中編
前回
奥行臼駅ホーム跡。読んだ書籍*1の写真で一番感銘を受けたのがこの場所から撮られた一枚だった。
傾いた駅名標と電柱、やや撓んだホーム、錆びた線路…
大きな改修を施されずに若干朽ちかけている"廃駅"らしい光景が広がっていた(端的に言うと最高)
モノクロで一枚。
保線小屋。内部にはイベント用の軌道自転車が置かれているらしい。
厚床方面。腕木式信号機がポツンと佇む。レールがまだまだ先まで続いているようだが…
ヒグマの出没が怖いので奥まで歩くのは自重した。*2それにしても廃線跡らしい光景過ぎませんかね。
このアングルも例の書籍で見た覚えがある。
中標津方面。最初に降りたった奥行バス停の待合所が確認できる。写真左側の家屋は旧春別駅から移築してきた共同風呂らしい。
ホーム側から見た駅舎。こちら側にもベンチがあった。
一通り駅跡を散策したので次の場所へ。ここまで説明していなかったが、実は奥行臼駅跡の遺構は標津線だけでなく他にもあったのだ。
駅前の県道を挟んだ向かい側にそれはある。
こちらが、別海村営軌道の奥行臼停留所跡である。
後編へ続く
標津線厚床支線 奥行臼駅跡 前編
前回
厚床駅からバスで奥行停留所に辿り着いた。奥行臼駅跡が間近に迫る中でこの線路を発見した訳であるが…
その前に中標津方面の廃線跡を少しだけ確認する事にした。こちら側は旧標津線跡フットパスとして整備されているようだが…
ご覧の通り荒れ放題。草が生い茂る夏場は更に歩行困難な状態になっているかもしれない…。
気を取り直して奥行臼駅方面へ向かう。
本当は線路跡を歩きたかったのだが、目線の向こう側に人影(写真撮ってる同業者)が見えたので渋々道路側から回って駅跡に向かう事にした…
道を歩く事3分…
見えてきた。
ようやく奥行臼駅跡に到着した。現役当時から残る味わい深い木造駅舎が健在だ。
入館料は無料。内部公開が始まったのは探訪日の2日前(5月1日)である。
こちらが駅舎内。想像以上に往時の面影をしっかり留めていた。窓口の上に掲げてある"奥行臼駅"のプレートがたまらない。
国鉄時代の物と思われる普通旅客運賃表が掲げられていた。この駅ではなく泉川駅*1で使われていた物らしい。この中で最も高い運賃は函館の5300円だが、2020年現在は函館~釧路間の片道運賃だけでも9900円かかる。
SLが走ってた頃の写真。
その他の展示物もろもろ。
駅舎内のベンチ。別海村と黄色い字で書かれているが、町制施行が1971年なのでそれ以前からここに置かれているのかもしれない。
窓口の出っ張りに置かれた駅ノートらしき物。現役時代に訪れた人の記述もあった。
こちらは駅務室の内部であるが、残念な事に今回は非公開だった。見るからに気になる物が多数置かれているのだが…
まずは1961年のカレンダー。左の伝令者というのは有人駅だった頃に使われていた物だろうか。
窓際には古いラジオに乗っかるSLのオブジェ。その後ろにあるのは黒電話?
それ以外に置かれていた物。(金庫、台秤、地球儀、漫画etc…) これらは町の所有なのだろうか?いつ誰が持ち込んだのか?真相は謎に包まれる…
一通り駅舎内を見学したのでそろそろホーム側へ。
おぉ…
やはりヤバい(再確認)
中編へ続く
標津線厚床支線 奥行臼駅跡 序
探訪日:2019年5月3日
北海道は廃線が非常に多いのが特徴的だ。札幌を始めとする都市部への人口集中による過疎化や炭鉱の閉山によって多くの鉄道路線が1960~80年代にかけて役目を失った。
今回取り上げるのは、日本最東端の街根室市から伸びていた標津線厚床支線の奥行臼駅跡である。
標津線は釧網本線の標茶から中標津を経由して根室標津に至る路線と中標津から厚床に至る厚床支線が存在した。旧国鉄時代から慢性的な赤字を抱えており、分割民営化でJR北海道が発足した直後の1989年4月に全線廃止となった。
自分がこの駅の存在を知ったきっかけは、物心ついた頃から自宅にあった日本廃線鉄道紀行という著書である。
文字通り日本全国の廃線跡を取り上げているのだが、中でも北海道の回で出てきた士幌線のタウシュベツ川橋梁とこの奥行臼駅に惹かれた。学生時代に親しかった乗り鉄の教師が若い頃に標津線跡をドライブして探索したという話を聞いてから更に関心が高まり、一度行ってみたいと目星を付けていた。
しかし場所が場所なだけに初めて渡道した時は断念せざるを得ず、著書の刊行から15年が経過した2019年に今まで非公開だった奥行臼駅の駅舎内が一般公開されるという情報を知り今回の訪問と相成った訳である。
元号が変わって間もない5月3日のお昼過ぎ、たった一両の根室行き快速に揺られ厚床駅に降り立った。
標津線厚床支線はこの厚床駅が始発駅だった。向こう側のホームから中標津方面への列車が発着していたらしいが、数年前交換設備が廃止され現在は手前側のホームしか使われていない。駅の南側は原野が延々と広がるのみだ。
厚床駅の駅舎と駅前風景。一日の乗車人員はわずか10人程度らしい。
厚床駅は20年以上前に無人駅となった。現在の駅舎は厚床支線廃止後に建て替えられたらしく周辺の駅より少し新しめな印象を持っていたがトイレが垂れ流し式で衝撃を受けた。
駅ノートを発見。まさにその通りである…。
奥行臼駅跡へは根室交通のバスで向かう。少々分かり辛いが中標津線と中標津空港線の2路線がかつての厚床支線の全区間をほぼ並行して走っているらしい。奥行臼駅跡の最寄りは奥行バス停だ。
まずは土曜休日わずか2便しか走らない中標津線に乗車する。バスに乗車する直前に運転手から行き先を尋ねられた。乗客は自分一人しかいない。
バスが厚床駅を出発して間もなく車窓一面が原野に支配された。Windowsの壁紙の中にぶち込まれたような気分である。
延々とこれ。
田舎にも程がある!
約10km程だだっ広い原野を走り抜けたのち奥行バス停に到着した。乗客0人となったバスは空気を運びながら中標津に向けて静かに去って行った。
根室交通の奥行バス停であるが、現地では普通に"奥行臼"と表記されてあった。ちなみに地名は野付郡別海町奥行らしい。何故駅名だけ"臼"が付いたのだろうか…
中標津方のバス停に待合室があった。場所的にはここが厚床支線の廃線跡らしいのだが…
!?
なんと待合室の真後ろから線路が続いていた。この線路の先に奥行臼駅跡があるのか…?
次回へ続く
富山地方鉄道本線 舌山駅
探訪日:2018年8月18日
前回の続きとなる
西魚津から宇奈月温泉行きの電車に揺られ約30分、次の目的地に到着した。
降りたのは黒部市にある舌山駅。西魚津駅と同じく昔ながらの駅舎が健在だ。
駅の隣にあった農協の倉庫。
電鉄富山方面のホームには木造の待合室がある。
待合室内部。ポップ体の貼り紙が異様に目立つ。あまり利用客は多くない筈だが置き傘が複数置かれていた。
窓枠に居たセミを撮った筈だが暗すぎてよく分からない…
ホームから宇奈月温泉方面を望む。終点までまだまだ距離があるものの既にこの辺りから上り勾配が続いているようだった。
この駅の特徴は線路と線路の間に水路が流れ込んできている所だろう。このような構造になった経緯が知りたい。
ふと駅周辺を見渡すと何やらデカい文字を発見。"名水の里 黒部"とある。
という事はここに流れている水路も名水に含まれるのだろうか?*1舌山駅のある黒部市内には黒部川扇状地湧水群というのが各所に点在しているらしいが。
構内踏切を渡って駅舎側のホームへ。
駅舎側のホームは窮屈そうな感じだった。
駅舎外観。10年近く前に若干改修されたらしく、それ以前は真っ茶色の外観だったらしい。*2
駅舎内。ここも無人駅で、かつての窓口はベニヤ板で塞がれていた。
ホーム側から窓口の裏側を窺ってみる。ヤカンが置かれたストーブが放置され、カレンダーは2018年(訪問した年)の2月で終わっていた。冬季だけ除雪作業員の休憩所として使っているのかもしれない。
駅舎内に飾られていた写真
電鉄富山方面の列車が入線してきた。
からの発車。
列車の先にやたら大きな構造物が横切っているのが確認できる。これは2015年に開通した北陸新幹線の黒部宇奈月温泉駅で、 併せて開業した地鉄の新黒部駅と接続している。
新黒部駅と舌山駅の距離はたった300メートルしかない。余りに短い事からこちらの舌山駅が廃止されるという噂が広まったらしいが何事もなく今日に至る。
折角なので新黒部駅まで歩く事にした。線路に沿うように道路が通っているので迷う心配はない。
途中には"北陸の銀閣寺"と呼ばれる天真寺松桜閣がある。多分新黒部駅から来る人が圧倒的多数だと思われる。
あっという間に新黒部駅。歩いて5分程だったかな。
こちらは黒部宇奈月温泉駅。駅前には黒部峡谷鉄道の電気機関車が保存されている。
この日は宇奈月温泉にも行ったのだが今回はここで一旦終わる事にする。地鉄の駅は既に建て替えや改修が始まっている所も有るので早いうちに訪問した方が良いだろう。
富山地方鉄道本線 西魚津駅
探訪日:2018年8月18日
富山地方鉄道といえば主に立山黒部アルペンルートや黒部峡谷へのアクセス路線として利用されている印象だが、沿線にある駅や運行している電車が極めてノスタルジックな事でも知られている。
今回取り上げる西魚津駅は、付近を通過するあいの風とやま鉄道線(かつての北陸本線)の車窓から全景が確認出来るため、ピンとくる人も居るかもしれない。
前日は魚津市内のホテルに泊まり、翌朝新魚津駅から電鉄富山方面行の電車に乗った。車輌はかつて京阪電車の特急で使われていたもので、地鉄に譲渡されてから既に30年近く走り続けている模様。
富山地鉄に乗る度に感じるのが揺れやすさである。線路の状態が著しく悪いのだろう。そもそも地方私鉄は乗り心地が良いイメージがあまりないが、この路線は手すりやつり革を持たずに立ち続けるのが非常に難しそうなレベルの揺れだった。
新魚津駅と西魚津駅の間には電鉄魚津駅がある。ここの駅舎はかつて電鉄魚津ステーションデパートという駅ビルと一体型になっていたが、末期は3階にある駅以外のテナントが全て撤退していまい廃墟同然の様相を呈していた。
築40年を過ぎて老朽化が進みエレベーターも無かったことから2013年に建て替えとなる訳だが、自分が旧駅舎を訪問出来ずじまいに終わったのは後悔の念が強い。
電車は5分も経たないうちに目的地の西魚津駅に到着した。この時点で21世紀とは思えない空気が漂っている。なお、降りたのは自分だけだった。
駅舎に近付いてきた。ホームと構内踏切の段差に合わせて上屋が建っている構造が良すぎる。
駅舎前の構内踏切。電鉄富山方面への電車に乗る時は遮断機が下りる前に渡らないと発車に間に合わないらしい。
出入口の改札に魚津水族館の看板が掲げられている。当然ここが最寄り駅であるのだが地鉄で来る人はどの位居るのやら。(水族館には今回寄らなかった)
誰が何の目的で付けたのかは分からないが、この駅のムードに十分合ってると思う。
駅舎内。ご覧の通り無人駅で、出札口はベニヤ板で塞がれている。
出札口跡の窓越しからかつての駅長室を覗いてみたが、有人駅だった頃から時間が止まっていそうな感じだった。
木製の伝言板があった。伝言板といえば携帯電話が普及する前の時代はどの駅にもあったらしいのだが基本的に学校の黒板と同じような形のものが圧倒的に多く、ここのような木製タイプは初めて見た。今となっては盆踊り大会のチラシが豪快に貼られているがこれはこれで悪くない。
駅舎全景。右書きの駅名板は今やすっかり珍しい存在だ。すぐ隣にそびえ立つ大木がいい味出してる。
駅前に立派な観光案内図があったのだが、西魚津駅もイラスト付きでしっかり紹介されていた(築80年!) 魚津水族館等の最寄り駅である事を考慮したのだろうか。
隣の電鉄魚津駅があのような末路を辿っただけにこの駅も地元民からすれば使い勝手が悪いだろうという思い込みがあったので少し安堵した。
駅の裏側に回るとこれまた最高のロケーションが広がっていた。この日は天気に恵まれていたと実感。
電車から降りた時は気付かなかったのだが、よく見ると駅舎横の架線柱が木製である。
振り返ってみると、あいの風とやま鉄道線(旧北陸本線)の真下にトンネル跡らしきものを発見。水路か通路に使われていたのかもしれない。
電車の時間が迫っているので駅に帰還。
乗る電車が来てしまった。多分一時間も滞在してなかったと思う。ちなみにこの車輌は地鉄オリジナル。
アルペン特急(元西武レッドアロー)の交換待ちをした後発車。次に再訪する機会があれば秋か冬にしようと思う。