標津線厚床支線&別海村営軌道 奥行臼駅跡 後編
前回
道路の反対側に有ったのは、別海村営軌道の保存車輌だった。
別海村営軌道は、別海村内(現在の別海町)を運行していた簡易軌道で、1971年の廃止当時は奥行臼から上風連までを結んでいた。
簡易軌道は戦前までは殖民軌道と呼ばれ、主に北海道の入植地と街を結ぶ交通・輸送手段として重宝された。国鉄標津線の開通は1933年だが、それ以前はほぼ同じ区間に並行して殖民軌道*1が通っていた。
別海村営軌道が奥行臼駅に乗り入れたのは1963年で、既存区間である厚床からの路線は同時に廃止。8年後の1971年にはこの区間も廃止となり村営軌道は全廃されてしまった。この当時は既にモータリゼーションによる道路整備等によって輸送手段もトラック等に切り替わっていたのかもしれない。
奥行臼停留所跡に残る駅舎詰所。こちらも内部が特別公開されているようだ。
内部に展示されていたのは当時の駅構内を再現したジオラマ。標津線の駅に急カーブで接続していたらしい。軌道側に対して遮断機が置かれていた踏切には驚く。(信号機が有ったのも意外だった)
現役時代の写真。こちらは奥行臼停留所の風景が中心だが、一番左上の写真は厚床で撮影された物である。この時代はまだ馬車が用いられていた。*2
こちらは上風連停留所の写真。現在も機関庫が残っているらしい。
停留所跡には実際に使われていた車両が展示保存されている。こちらは旅客用の自走客車であるが名称等は特にない。*3
加藤製作所製のディーゼル機関車と貨車。牛乳輸送を行っていた事から貨車はミルクゴンドラと呼ばれていたらしい。
転車台跡。何故か橋梁部分のみ消失している。
上風連方面の廃線跡は路盤が残存しているものの、自然回帰が進んでいるため判別しづらい。
転車台跡の奥に何やら怪しげな構造物が。これの正体は…
大型機関庫跡である。駅舎詰所と違いこちらは完全に廃墟同然の様相を呈している。かつては手前の朽ちた木柱から奥の建物にかけて大屋根が有ったようだ。
突入…。春先だから容易に接近できたが雑草が生い茂る夏場はかなり厳しそう。
機関庫内の様子。現在屋外に展示されている保存車輌は元々ここで長らく保管されていたらしい。
枕木がそっくりそのまま残っていた。
ピット跡も確認出来るが崩落が進みつつある。
天井もご覧の有り様である。冬季は積雪などのリスクもありこの建物が原形を留めているのも時間の問題では無いだろうか。
そろそろ元の場所へ戻ろう。
もう少しここに留まりたいのだが、出発の時間が刻一刻と迫る。
3回に渡ってこの駅跡を取り上げたが、ここでの滞在時間はバスの本数の影響もありたったの52分だった。やはりレンタカーの方が間違いなく便利かもしれない。
駅跡を去るのが惜しい…。っていうか最初来た時に比べて車の数が増えてるような。
最後に取り上げたい物件が一つ。こちらの奥行臼駅逓所である。駅逓所とは北海道の開拓時代に使われていた宿場施設であり鉄道駅*4を指している訳ではない。場所は奥行臼駅跡と奥行バス停の中間辺り。
ここも奥行臼駅跡と同じく内部が特別公開されていたが、今回は時間の都合で泣く泣くパスする事に。数年前に改修されたらしく外観はピカピカだった。
奥行バス停から中標津空港線のバスで奥行臼を去る。この路線は中標津空港から厚床駅を経由して根室の駅前ターミナルへ至る。空港連絡バスが廃止された特定地方交通線の事実上の代替バスになっている事例は九州の旧山野線などでも見受けられる。
車内の様子。まさかの3列シートだった。(かつては長距離夜行バスに充当されていた?)
そして乗客は数える程度しか居なかった。中標津空港線は空港以外の部分的な乗車でも問題なく利用できる所が非常に便利だと思ったのだが、大型連休シーズンでも乗車率が低いと先行きが不安になってしまう…。
バスから見た温根沼。
約一時間弱の乗車でこの日の目的地、根室に到着した。
今回は奥行臼駅のみを取り上げたが、標津線の遺構は鉄道資料館がある西春別駅跡やターンテーブルが保存されている根室標津駅跡など、まだまだ随所に残っているらしい。再訪する機会があればそちらの訪問も兼ねて周りたい所存である。